| キリシタン殉教史跡(石川全県) |
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| 〜加賀のキリシタン〜 加賀にはじめてキリスト教が伝えられたのは、ユスト高山右近が加賀初代藩主前田利家によって加賀へ招かれた天正16年(1588年)頃のことである。二代藩主前田利長は洗礼を希望するほど好意的であったので、右近の熱意で加賀藩のキリシタンは次第に増え、慶長9年(1604年)には信者が1,500名程に達している。このキリシタンたちは高山右近一族とその家臣、各地から来国したキリシタン、領国内での受洗者の3グループから構成されていたものと考えられる。 右近は自費で司祭館を金沢に、聖堂を金沢に1箇所、能登に2箇所建立し、1605年からは宣教師とイルマン各1名が金沢に常駐し、加賀及び能登の司牧を担当した。 慶長18年(1614年)、徳川家康はキリシタン禁教令を発布し、金沢からは高山右近、内藤徳庵らはマニラへ追放された。キリシタン弾圧の時代の始まりであった。 〜能登のキリシタン〜 右近の加賀藩における知行地は、能登の鹿島郡と羽咋郡志賀町辺りであったらしい。そこに高槻、明石以来の右近の旧家臣たちが住まい、同地方のキリシタン社会の中核をなしていた。また、前田利家の家臣となった内藤徳庵は知行四千石、徳庵の長男好次は千七百石をもらい、知行地は現在の羽咋郡志雄町萩谷付近であった。1605年から金沢に定住していた宣教師とイルマンは、度々能登を訪ねている。イエズス会の1603年々報は、能登の2教会について述べているが、その一つは右近の弟太郎右衛門、他は右近の家臣の1人が世話をしていた。 右近、徳庵らのマニラへの追放により、能登のキリシタンたちも壊滅的打撃を受けたのである。 |
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| (1)加賀藩における殉教 | ||||||||||
| 加賀藩の禁教政策は寛永期を通して厳しさが増してきた。「三州奇談」及び「三壺聞書」によれば、寛永7年(1630年)、高山右近の法弟であった加賀藩士鈴木孫左衛門(知行千石)が江戸定詰めとして出府中、領内で宗門改めがあり、孫左衛門は内心信仰を維持しているとの訴人が出たため江戸で捕らえられ、江戸神田川の畔で処刑され、魚津在住の孫左衛門の家族は魚津で処刑された。 金沢では孫左衛門と懇意の沢市という座頭の夫婦他10人ばかりのキリシタンが捕らえられ、沢市夫婦は金沢の泉野では磔刑、他の者は斬首・獄門に処せられたという。 この事件は、加賀藩領で今日に伝えられる唯一の殉教事件で、沢市夫婦が処刑された「泉野」は、藩政時代「泉野新村」と呼ばれた広大な孟宗竹の竹林に囲まれた所であった。「金沢古蹟志」によると、慶長12年(1607年)頃、藩の刑法場が現在の野町三丁目から泉村(泉野新村)の村地へ移ったとあり、その中心は現在の泉野桜木神社(金沢市泉野町三丁目15-14)辺りであった。 |
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| (2)高山右近の史跡 | ||||||||||
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(1) 高山右近像 所在地:金沢市広坂一丁目1-54 カトリック金沢教会敷地内 交 通:市バス「香林坊」下車 カトリック金沢教会創立百周年記念事業の一つとして、昭和63年(1988年)4月10日に教会敷地内に建立された。高山右近が前田利家に招かれ金沢に来たのが1588年であるので、昭和63年はちょうど四百年になる。 (2) 右近第一の屋敷跡 所在地:金沢市広坂1-2 旧金沢大学付属小・中学校跡 交 通:市バス「県庁前」下車 「金沢古蹟志」には「高山南坊の第跡は石浦神社の向かい、旧藩中は岡田氏等の邸地となり、今師範学校の囲い内となりたり」と明記されており、前田利家生存のころの右近の屋敷だったところである。 (3) 右近第二の屋敷跡 所在地:金沢市尾山町10-2 現・金沢貯金事務センター 交 通:市バス「南町」下車 右近が石浦神社前の第一の屋敷から、この第二の屋敷に移ったのは、慶長7年(1602年)11月の金沢城炎上前後の頃とされている。 |
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| ↑ 高山右近の像 | ||||||||||
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| ↑ 旧金沢大学付属小中学校跡 | ||||||||||
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| ↑ 金沢貯金事務センター | ||||||||||
| (3)キリシタン史跡 | ||||||||||
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(1) キリシタン武士屋敷跡 所在地:金沢市尾山町7-3 現・大谷廟所 交 通:市バス「南町」下車 「金沢古蹟志」に「この頃、金沢甚右衛門坂の下にばてれん居たり」とあり、現在の大谷廟所があるあたりに教会が建てられたといわれている。内藤徳庵、宇喜多休閑らの高禄キリシタン武士たちも、次々とこの教会の付近一帯に屋敷を与えられるようになった。古老によると、内藤徳庵の末裔の家が、明治の初めまで、この付近にあったと言われている。 (2) 傳燈寺 所在地: 金沢市伝燈寺町ハ−179 交 通: 国道159号線鳴和交差点を富山方面に向かい右折、県道に入り車にて約10分 勅願寺の格式を持ち、運良開山以来、歴史的由緒ある傳燈寺は、承応3年(1654年)加賀藩主前田利常の信頼を受けた少林寺千岳によって、妙心寺派として再興された。 キリシタンであった加賀藩家老津田玄蕃の父、津田正勝の位牌や墓塔と伝えられている五輪塔がある。本堂裏山に、十字架の形をした洞窟があり、地元では「弁天穴」と呼び、信仰の場所として崇められている。 (3) 本行寺(本門法華宗) 所在地:七尾市小島町リの134 交 通:JR七尾線「七尾」下車、 北鉄バス停「小島橋」下車、 徒歩約10分 慶長19年(1614年)2月、高山右近らがマニラへ追放後、加賀藩の高級武士のキリシタンの夫人たち、即ち、津田玄蕃の海津夫人、長好連の夫人(前田利家の娘福姫)だった松寿院とその娘菊姫たち20数名が秘かに本行寺に送られて、一代蟄居を命ぜられたと伝えられている。 寺の敷地内には下寺屋敷跡(高山右近の修道所といわれている)や「右近の井戸」と呼ばれている井戸跡があり、能登に知行地のあった高山右近と深い関わりのある寺と言える。 最近、寺で発見された「霊宝目録(年代不詳)」に長房公長刀(長房公とは高山右近のこと)、混天儀(渾天儀・天体観測器機)、音楽器(舶来の楽器と考えられる)等の記載があり、本行寺と右近及びキリシタンたちとのかかわり合いを考える上に興味深い。 菊姫の枕仏と伝えられている漆塗りの厨子が保管されているが、中には彩色した座った仏像が安置されており、胸のところを開くと、奥に十字架が隠してあり、幽閉後も秘かに信仰を守っていたのであろう。 |
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| ↑ 大谷廟所 | ||||||||||
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| ↑ 本行寺境内 | ||||||||||
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| ↑ 海津夫人の墓 | ||||||||||
| (4)浦上キリシタンの流配地 | ||||||||||
| (1) 金沢藩へ流配された浦上キリシタン 金沢藩(後に石川県)に預けられたのは、主として浦上・中野郷の人達で、最初は124名の男たち(主として戸主)であった。 明治3年(1870年)1月5日、立山役所に集められた彼らは、大波止で乗船、瀬戸内海を経て大坂に着いた。金沢から引き取りにきた役人3名に引率され、伏見、琵琶湖、塩津を経て金沢に到着したのは、長崎を出てから11日目であった。金沢では、卯辰山にある織機工場跡、俗に言う「織屋」に収容された。 一方、家族たち約400名は、荒波の玄界灘を渡り七尾に上陸、行程18里の道を雪のなかを歩いて卯辰山にたどり着き、「湯坐屋」に収容された。 卯辰山に流配された浦上キリシタンは総勢516名となり、家族ごとに織屋と湯坐屋に収容された。乏しい食事と寒さの中で仏僧の説諭が続き、信仰の強固なものに対しては、他の見せしめのため、「奥のときえ」といわれる二重柵を巡らした16間に4間の藁葺きの牢獄に入れられた。 (2) 大聖寺藩へ流配された浦上キリシタン 大聖寺藩(現・加賀市)へ流配されたのは、金沢へ流配された人々と同じ浦上中野郷の人達で、明治3年1月12日に大聖寺へ着くと、南郊の庄兵衛谷の長屋に収容された。 総勢83名の中33名はさらに富山へ向かい、大聖寺藩に預けられたのは50名であった。その殆どは女、子供で、1ヶ寺あたり1人から3人ぐらいづつ預かることになり、東西両派真宗の寺院20数ヶ寺に収容された。 大聖寺県(大聖寺藩が後に大聖寺県)を合併した金沢県が石川県と改称した明治5年(1872年)6月6日、全員金沢へ送られた。 (3) 浦上キリシタンの釈放 外国政府の強硬な抗議により、明治政府 は明治6年(1873年)2月24日、キリシタン禁制の高札を撤去、3月14日「太政官達」をもって「長崎県下異宗徒帰籍」が命令され、石川県も浦上キリシタンを長崎へ送還することになった。 (4) 浦上キリシタン遺跡 @ 織屋(現・卯辰山「菖蒲園」) 交 通:北鉄バス 卯辰山行き 「宮の森参道入口」下車 卯辰山の中腹にある「菖蒲園」が織屋跡である。14代加賀藩主前田慶寧が慶応3年(1867年)卯辰山を開拓したとき、ここに織屋(織物工場)を建てたが、明治2年(1869年)の藩籍奉還により開拓は中止となり、当時は空き家となっていた。 流配された浦上キリシタンの第一次グループ124名(主として戸主)は、明治3年1月末頃、卯辰山に到着後、空き家の二階建ての織屋に収容された。 A 長崎キリシタン殉教者碑 交 通:北鉄バス 卯辰山行き「望湖台」下車 卯辰山の「望湖台」下に「長崎キリシタン殉教者碑」が建っている。 昭和43年(1968年)8月11日、カトリック金沢教会が創立80周年記念事業の一つとして建立したものである。 B 湯坐屋 「長崎キリシタン殉教者碑」が建てられている場所から、山道を約50メートル下ると、コンクリートで固められた物置場がある。卯辰山の開拓時代、ここに「城が谷薬湯」が建てられ、建物は200坪に及び、日々湯治客で賑わっていた。 浦上キリシタンの第二グループ400名余の家族は、七尾から卯辰山に到着後、ここに収容された。その頃は湯は枯れていたが、大きな2階建ての建物は残っており、400名余が家族ごとに収容されても余裕は充分にあり、当時は火鉢、風呂もあり、灯火も充分、布団は山と積んであったという。 C 奥のときえ 奥卯辰山に向かって進むと、現在「あざみ谷」と呼ばれている広大な谷が見える。ここが「奥のときえ」と言われた所で、この谷間に16間に4間の藁葺きの牢獄が置かれていて、二重柵が巡らされていた。 信仰の強固な者をここに収容して、改宗を迫ったのである |